Interview
永山智行(劇作家・演出家 劇団こふく劇場代表)×日髙啓介(俳優 FUKAIPRODUCE羽衣)×多田香織(俳優 KAKUTA)
2020年、新たな越境型演劇ユニット・ひなた旅行舎が始動した。福岡出身東京在住の俳優:多田香織の呼びかけに、宮崎出身東京在住の俳優:日髙啓介と同県出身・在住の劇作家・演出家:永山智行が賛同。選んだ戯曲は長崎出身の劇作家・演出家:松田正隆が京都で活動していた初期の代表作『蝶のやうな私の郷愁』(1989年初演)だ。永山が代表を務める劇団こふく劇場稽古場での稽古を経て四月の三股町立文化会館、五月のこまばアゴラ劇場、そして六月に三重県文化会館というツアーの予定は三股以外、感染症禍の影響で延期に。一年を経て再始動する三人の、昨年三股公演直後の声を改めてお届けする。
―お三方の名前の頭文字を取って「ひなた」とし、“戯曲をガイドブックとして作品世界を旅し上演する者たちの居る場所”という意味で「旅行舎」と名づけたユニット。始まりは多田さんの提案と聞きました。
多田 私は2015年に福岡から上京しKAKUTAに入団しました。その後2、3年は九州の劇場や劇団との創作・公演があったのですが、気づくと東京以外の、地域との芝居づくりの予定がなくなっていて。宮崎県立芸術劇場の作品などでお世話になった永山さんの演出は、また是非受けたかったのでお会いするたび「ご一緒させてください」と言っていたら、「なら企画してよ」と仰った。それを鵜呑みにしたのがこの企画です。
永山 そんなこと言ったっけ?
多田 言いました! 前後して私が参加したワークショップで出会ったのが『蝶のやうな私の郷愁』。強く心惹かれて全編を演じてみたいと思い、相手役を妄想した時にいつか絶対共演したいと思っていた日髙さんの顔が浮かびました。ダメもとで相談したところ、企画から参加してくださると快諾いただけ、もう嬉しくて‼
日髙 僕は、メンバーを聞いた瞬間「やりたい!」と即答しました。個人的なことですが、ここ数年で大切な人を亡くす経験をし、「やりたいことはすぐ実行に移さないと機会は失われる」と考えるようになって。この企画はまさにそれ。尊敬する永山さんにチャーミングな多田ちゃん、さらに松田さんの戯曲ですから、やらなければ損です。
―激しい雨に降り込められた夫婦二人の日常から、生死のあわいが覗く『蝶のやうな~』。三股公演終了直後ですが、改めてこの戯曲の魅力がどういうものか伺えますか?
多田 公演後、改めて「この作品、難しいよね」とみんなで話しましたよね?
日髙 いろいろな捉え方ができるというか、余白が多い戯曲だと思います。描かれているのは日常ですが、そこに「特別」も織り込まれ、誰もが気づくと深く引き込まれてしまう。静かなジェットコースターに乗っている感覚、と言えばいいんでしょうか。
永山 少し乱暴な言い方をさせていただくなら私は、特にこの戯曲は松田流の「喜劇」だと思っているんです。日常を描きながら劇中にはいろいろな不条理が存在する。夫婦の会話の嚙み合わなさから、圧倒的な自然の驚異に卑小な人間が追い詰められていく様を距離を持って眺める視点まで、質感がそれぞれ異なる不条理を可笑しみに転化するというのが、今回演出する過程で見つけた『蝶のやうな~』の魅力だと私は思っています。
―永山さんは、以前にも松田作品を演出していらっしゃるのですか?
永山 「国民文化祭・かごしま2015」で鹿児島の高校生たちと、戦時中の、松田さんのお母様をモデルにした『紙屋悦子の青春』(92年初演)をつくったことがあります。でもそれよりだいぶ前、戯曲を読んで心が動かされた箇所をノートに書き留めていた時期があって。松田さんの『海と日傘』(94年初演)を読んだ時に「コレは全部書き写さなきゃ」と思った。長崎の言葉で紡がれた日常的なせりふの裏にある描かれないドラマの深さ、生活の温度、自然の気配と匂いなどが実に魅力的で、それは『蝶のやうな~』にも繋がるものです。
―こふく劇場稽古場での本稽古以前に、東京でも俳優お二人と演出助手の矢田未来さんとで事前稽古をされたと聞きました。
多田 宮崎入りの前に4日ほど東京組で集まったのですが、最初の二日間は戯曲やそれにまつわる自分の体験を話すだけで終わってしまい、「稽古をするって難しい……」と反省しました(苦笑)。でも後半は戯曲の細部、一節ずつに込められた意味などを皆で考える白熱した時間になったと思います。
日髙 クリエイションは演出・永山さんありきですが、その前に戯曲を間に挟み、演じる二人の人生観などをじっくりとお互いに話し、共有できたのは大きかったと思います。
多田 永山さんのアドバイスで「夫婦」を研究するため、友人の俳優夫婦に来てもらい、戯曲を読んでもらったりもしました。奥様の女優さんは、私と同じワークショップに参加していた方なんですが、その時に別の方と読んだ様子と、夫の俳優さんを相手役にした時のやりとりが全然違うんです! でもご本人は自覚がなく、感想を伝えたら驚かれたのですが、夫婦の間にしか流れない空気感があるのだと、とても参考になりました。
―永山さんの演出的な取り掛かりは何処から始めたのですか?
永山 稽古のはじめ、日髙さんと多田さんには今作の他に岸田國士の『紙風船』と太田省吾の『更地』など、共に夫婦が軸となる私自身も影響を受けた戯曲を読んでもらって。『紙風船』は今作と非常に重なるところが多いし、『更地』は老夫婦がかつて暮していた土地に戻って来るという今作の続きのような趣がある。取り組む戯曲に連なる時間や空間を孕む戯曲を参照しながら立ち上げる、という初動がありました。
また、登場人物たちが大きく動く戯曲ではないし、時間の流れも定かではないので、大道具や小道具も具体的なものは使わず、平台で組んだ家のような空間と、うちの稽古場にあった本来の10分の1サイズの箱馬を積み木のように使って家具や家の中の細々したものも表現することにして。大人二人がままごとをしている、そんな劇空間になりました。
日髙 多田さんと僕と矢田さんは、宮崎市内から稽古場まで毎日片道約1時間、車で稽古に通っていて、その車中でも作品のことはもちろん、感染症禍のことなどずっと話していました。作品にまつわる時間全てが、宮崎という土地にできた新たなコミュニティというか、状況には悩ましいことが多くありましたが創作に集中できる、とても良い時間だったと今振り返ると思えますね。
永山 そう、普段であれば「作品をどうするか」で稽古も準備も終始するけれど、今回は「公演をどう実施すべきか」に頭を悩ませ、話し合う事柄が多くあったのが常と大きく違うところでもありました。
―そういう時間を経ての三股公演はいかがでしたか?
日髙 公演を疑問視する声もあったそうですが、いざ初日を迎え、作品を観てくださった方々はみなしっかり楽しんだうえ、「今、よく上演してくれた」と励ましの言葉をくださった。本当に嬉しかったです。
多田 席数は50%近くに減らしていましたが、アンケートを書いてくださった方が多くビックリしました。最初は恐る恐る読みましたが、内容は日髙さんがおっしゃる通り皆さん好意的で。この土地で、このお客様の前で第一回公演ができて本当に良かったと思っています。
永山 私にとって三股町立文化会館のお客様はみな顔の見える方々。これまで当たり前のように公演ごとにお会いしていた方たちを、こんなにも特別な想いで迎えることになる日が来るとは……。でもこれこそが、私が町民の方々と一緒にさまざまな創作に携わる時に掲げる「私たちの人生のドラマが始まる」という、そういう時間であり営みでもあると改めて噛み締めました。
―それらの想いの先には三重公演があります。
永山 状況が許せばもちろん、必ず伺いたいと思います。今は、「呼んでくだされば何処へでも行きます!」とも「誰にでもお見せしたい」とも言えず、「特定・少数」のお客様としっかり向き合って作品を届けることが大切になっている。だからこそ、三重県文化会館とそのお客様というこれまでいくつもの作品を通し、結び合ってくださった方々のもとを訪ねることは、これまで以上に大切な意味を持つと考えています。
日髙 羽衣の公演やワークショップなどでもお世話になってきた三重に、厳しい状況下ではありますが自分の故郷である宮崎でつくった作品を持って伺えることがとても嬉しいし、今後の自分の俳優人生にとっても、大きな意味を持つ予感がしています。
多田 私は今回初めて三重に伺い、お芝居をさせていただくことになります。(注:掲載時には2021年4月こふく劇場「昏睡」三重公演ののち、2回目となる)永山さんと日髙さんから、会館にも三重の演劇人にも素敵な方がたくさんいらっしゃる話を聞き、わくわくしかありません! 作品と一緒に三重の地を踏む日を、心から楽しみにしています!
写真=「蝶のやうな私の郷愁」(2020)
取材・文=尾上そら