古典に敬意を持つこと、そこからしか何も出てこない―木ノ下裕一 木ノ下歌舞伎「心中天の網島-2017リクリエーション版-」

10月に三重にやって来るのは、2015年に上演された「黒塚」以来2度目の登場となる木ノ下歌舞伎。FUKAIPRODUCE羽衣の糸井幸之介が演出・作詞・音楽を手がける本作は、2015年に初演された「心中天の網島」の「2017リクリエーション版」だ。主宰の木ノ下裕一に話を聞いた。

―木ノ下さんと糸井さんが初めてお仕事されたのが、「心中天の網島」初演でした。お2人の出会いのきっかけは?

木ノ下 糸井さんが作・演出された「観光裸」という作品を2012年に京都で観て、「近松門左衛門が生きていたらこういう心中ものを書いたんじゃないか」って感激したんです。「観光裸」の主人公は不倫の男女で、セリフの中で「殺して」って言い合うシーンがあるんです。でも実際には心中せず、コーラにたかっているアリを殺すんですね。その状況を俯瞰すると、アリは2人かもしれなくて、その2人をもっと大きな存在のものがぷちっと殺す、というふうにも見える。近松の心中物は単なる恋愛ものじゃないとずっと思っていて、「心中天の網島」も不倫関係の男女を描きながら、最後に天の網島から俯瞰すると、そういう人々の営みが、小さいけれどだからこそ輝くってことが描かれていると思っていて。その点で、糸井さんは心中物を俯瞰的視点で描いていると思ったんです。

 

―その後、実際に創作に入るまで、かなり時間をかけられました。その間、どんなやりとりがあったのですか?

木ノ下 一から十まで語り合いました。まずは仲良くなることだと思って、公演の2年前くらいから尾道にある糸井さんの別荘に泊まりに行ったり、一緒に文楽も観に行ったり、糸井さんに僕の家に来てもらって参考資料を観てもらったり、糸井さんに参考にしてほしいと言われたビーチボーイズの「ペットサウンド」を聴いたり…。フィールドワークもしました。「心中天の網島」の橋づくしのシーンに出てくる橋の名前を辿りながら1日大阪を歩いたんですけど、歩きながら糸井さんが急に「ここは1曲、長い組曲でいこうかと思います」と言い始めたりして。劇中で小春と治兵衛が、天神橋を渡るときに「これは三途の川だ、これを越えたら死んじゃうね」って妄想するところがあるんですけど、確かに天神橋を渡ると急に鬱蒼とした森があって人の気配が消えていく。糸井さんはそこに感銘を受けたようです。

 

―近松作品は修辞の素晴らしさも魅力ですが、糸井さんも言葉の力が強い作家だと思います。現代劇に翻案する際に、木ノ下さんが気をつけたことはありますか?

木ノ下 糸井さんには台本を書いてもらう前に僕の補綴台本を渡しているんですが、ところどころ僕が発注書というか、糸井さんにメッセージを書いていて。例えば「このシーンではこれとそれを大事にしてください」とか「この名ゼリフはとても大事で外せないので、このセリフは言い換えるなどして入れてください」とか。例えば治兵衛に小春を身請けさせることに決めた妻のおさんが、身請けの金を作るため、質草を探してタンスから着物を引っ張り出すシーンでは、“物を通して夫婦の記憶が出てくる”ことが描ければ、セリフや出てくる物、記憶の内容も自由です、とお伝えしました。そうしてある程度絞っておけば、糸井さんも自分の言葉で書けるかなと思って。

 

―タンスのシーンはとても印象深かったですね。そのシーンをはじめ、心中物でありながら、死にゆく2人より夫婦の物語が心に沁みました。

木ノ下 糸井さんはかなり早い段階から「どちらかというと死ぬ2人より生き残ったおさんのほうに興味がある」と言っていましたね。あと、「心中は特別なことじゃなくて日常の中に突然ぼっと表れる感覚だから、大それたことをやってのける、みたいなことにはしたくない」とも。初演でもおさん役を演じた伊東沙保さんがものすごく細かく演技を作ってくれて、相当強い女性像になったということもあります。対して小春は、圧倒的な孤独を背負った女性。糸井作品にはよく不倫カップルが描かれますが、不倫してても2人で居ても寂しい、その寂しさは埋めようがないってことを、恋人たちのどうでもいいいちゃつきの中であっけらかんと描いている。小春と治兵衛のやりとりの中にもベターっと張り付く孤独がありますよね。

 

―初演から3年。リクリエーションされるということですが、どのように変えていくのでしょうか。

木ノ下 美術は、初演のイメージを踏襲しつつ、5都市をツアーするので応用力のあるものにしたいと思っています。あと、初演では小春と治兵衛が死ぬと、その上にベニヤ板が敷かれておさんの家が建ち、寝転がったおさんの上に子供がいる、というシーンがあったんですけど、死んだ人の上に生きてる人が居て、さらにその上に未来世代の子供がいる、という3つの重なりをもっと明確に見えるようにしたいと糸井さんは言っていましたね。

言葉については、糸井さんが「初演時はまだ近松に遠慮していて、特にセリフの現代語訳が甘い気がする」と言っていて(笑)、現代口語で書かれた1幕目の台本を糸井さんが全編書き直すので、糸井語訳の「心中天の網島」になります。演出面では、小春と治兵衛が死ななきゃいけない理由にもっと迫りたいということをおっしゃってましたね。

 

―木ノ下さんから糸井さんにリクエストしたことは?

木ノ下 やっぱりセリフのことは気になっていたので、糸井さんが書き直してくださるのはいいなと思っています。あと、3人の登場人物以外の周りの人たちの視点が弱かったなと思うので、おさんの父親や小春の置屋のおかみが語る正論や、能天気に生きている丁稚の様子などがもっと描ければ、“小春と治兵衛が死ななきゃいけなかった理由”も見えてくるのではないかと思います。

 

―木ノ下歌舞伎初見の方にアドバイスをお願いします。

木ノ下 別に歌舞伎を観てないからといってわからないものではないですから、歌舞伎とか古典とか意識せず観に来てもらえたらと思います。あとは糸井さんのお芝居や曲には感銘を与えたり、同化させちゃう磁力があって、あのお芝居や歌を必要としている人がもっとたくさんいる気がしていて。生きてること自体がわびしいですからね、何かしら寂しさを抱えている人、ちょっと倒れそうになっている人たちがたくさん観に来てくださったら。

 

―木ノ下歌舞伎は昨年10周年を迎え、大きな節目を迎えました。改めて、古典の現代化にこだわり続ける中で、もっとも大切にされていることはなんでしょう。

木ノ下 古典への敬意、でしょうか。例えば鶴屋南北が言いたかったことを僕が翻訳するとこうなります、と思えるまで見つめ続けるとか、ただ崇め奉ることじゃなくて「こんなのつまらないですよ」ということもちゃんと言えること、とか…。

古典芸能って俳優の体を通し、新陳代謝することで生き延びてきたもの。なので、250年前に生まれたある演目を当たり役とした俳優が10人いれば、セリフや解釈が変わるターニングポイントが10あって、作品にはそれらの変化が全て含まれているんです。また、古典の演目には、それを観て笑ったり涙してきた人の思いが数百年分詰まっていますよね。それはどういうことなのかを考えながら、現代の人がそうなるにはどうしたらいいかを考えていく。さっき例に挙げたタンスのシーンでも、タンスから着物を取り出すという行為の意味が250年前と今では変わっていますから、“物から記憶が蘇る”という作者の意図を、より現在の感覚に近い表現に変えていくには、どうしたらいいか。そうやって敬意を持って古典に接すること、そこからしか何も出てこないと思いますね。

取材・文:熊井玲
舞台写真:「心中天の網島」(2015年)撮影:東直子