野村政之 演劇の向き合い方

外の人に魅力を伝えたい

―今の演劇について、どう思いますか?

野村:面白い演劇作品を作ることも大事なんですけど、同じくらいに、演劇に親しみがない人たちにどうやって魅力を伝えていけるかとか、演劇に関わっている人が、そういう観点で自分たちの活動を捉えていけるか、みたいなことが大事になってきてると思います。一般人としての感覚を持つってことと、ジャンルに関わらずより広く文化を捉えるってこと、どっちの意味でもですけど。この数年、劇場法1)2012年6月、「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」が施行された。全国の劇場や音楽堂(ホール)の活性化に対し、国や自治体に責任があることを明記。劇場や音楽堂は公演を企画制作する機関であると規定し、専門的な人材の育成や確保、施設同士の連携や大学との協力を促している。
「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」について
の講座やったり、ロボット演劇2)劇作家・演出家の平田オリザさんがロボット研究の第一人者・石黒浩氏とタッグを組み、大阪大学で進めている「ロボット演劇プロジェクト」の最初の劇場作品「ロボット版『森の奥』」を野村さんが制作を担当。や本広さん3)「踊る大捜査線」シリーズで知られる映画監督・本広克行さんのこと。「青年団リンク本広企画」として2010年、本広さん演出の演劇公演「演劇入門」(原作:平田オリザ/脚本:岩井秀人)が上演された。野村さんは制作を担当。
本広克行オフィシャルサイト
との演劇づくりに取り組んだり、あと今回の三浦さん4)音楽ユニット「□□□(クチロロ)」主宰の三浦康嗣さん。2011年5月に三重県文化会館で上演された ままごと「わが星」で音楽を担当、2012年10月に三重県文化会館で上演された音楽劇「ファンファーレ」で、音楽・演出を担当した。
□□□オフィシャルサイト
もですけど、音楽家と一緒に作品つくったり。その中で、自分たちが面白いと思う演劇をやるだけじゃなく、それはキープしつつも、さらに広げていく感覚を持たなきゃいけないと思ってます。

―それは、演劇という世界に閉塞感があるから?

野村:それもありますけど、演劇だけが抱えている問題でもないと思います。僕、最初に制作として働いたのが地方の公共ホールだったんです。民間の指定管理者として。公共ホールの劇場や舞台機構ってすごくリッチで、面白い空間があったりもするんですよ。大学から演劇やって、役者とか演出、音響、宣伝美術とかやってたんですけど、そんな自分から見ると「こうしたらもっと生かせるのに」ってことがいっぱい見つかる。でもそんなこと全然行われてなくて。単純にその館を回してるだけで、それ以上は望まれてないし望んでもいない、っていうのが職場の感じだった。もっと言えば演劇とか音楽とかダンスとか、出し物系のものを面白がってすらいないんじゃないかと感じるくらいで。

―県とかの出向とかいますからね。

野村:文化に対して愛のある人、積極的に動く人がいない。一方で、公立の施設だからいろんな人が楽しみを求めて来るんですよ。「全然創造的じゃない」ってことと、でも「市民に開かれた場所だからいろんな人が来る」っていうことを、どうつなげられるかっていうのが、僕の活動の出発点です。で、1年間やったけど、結局全部お金の話、収支の話になっちゃって、地域にとって意味のある文化的な活動とか普及活動とかという視点がない。「ここで偉くなってもしょうがないな」と思って辞めたんです。で「もうちょっとこの分野のことを勉強しなきゃ」と思って、2007年の9月にこまばアゴラ劇場・青年団5)野村さんが所属する劇団。1982年、平田オリザさんを中心に結成された。
青年団
に入りました。5年くらいで辞めるつもりだったんですけどね、入った時は。

―5年過ぎましたね。

野村:ですね(笑)。東京で小劇場の演劇やってて、アゴラ6)こまばアゴラ劇場。東京都目黒区にある小劇場で、平田オリザさんがオーナーを務める。劇場で行われる全公演を「こまばアゴラ劇場プロデュース」とすることで、若手演劇人やカンパニーを支援。
こまばアゴラ劇場
をはた目に見て「どういう風に成り立ってんのかな」ってすごく不思議で。あと、公共ホール時代の上司を見ていて、この仕事には芸術家と対等に、懇ろに話せる関係が必要だと感じていたので、オリザさん7)「青年団」の主宰者、平田オリザさん。詳しくは「ぱふぉ」第1号参照。や、自分と同世代の創り手とコネクションを作って、5年くらいしたら公共ホールでプロデューサー的にやろう、という下心を持って入った。自分の求めているところが「市民に開かれていて、かつ創造的な活動が行われている場所を作ること」なんです。演劇だけじゃなくて、文化会館っていうくらいだから音楽もあれば踊りもあれば、何でもあるんですよね。そういうものと演劇とをきちんと生かして、それぞれにお客さんが付いてて分かれてるものが、クロスオーバーできるような場を。

―三重文で「トリプル3」の「あらし」8)「トリプル3 演劇ワリカンネットワーク」は「3つの劇団」と「3つの公共ホール」が「3年」かけて、新作戯曲の書き下ろし、公演の制作・上演、各地域でのレジデンス企画を展開するネットワーク型・市民参加型の演劇プロジェクト。「南河内万歳一座」「劇団ジャブジャブサーキット」「劇団太陽族」の3劇団と、「すばるホール」「長久手市文化の家」「三重県文化会館」の3会館が連携し、2010年にスタートした。今年10月、三重県文化会館で南河内万歳一座と地元の役者らが共演し「あらし」を上演。
トリプル3
が上演された時、客層がいつもと違ったんですよ。あれオペラの方が客演してたんです。だからその方のお客さんだなぁと。それで、その人たちがどう反応するか気になったんですけど、ちゃんと見てらっしゃいましたね。だから、ああいう人たちも演劇見ればいいんじゃないかって思う。

音楽劇「ファンファーレ」9)三重県文化会館で10月に上演された音楽劇「ファンファーレ」。演劇界のニューホープ柴幸男(ままごと)と人気音楽ユニットのフロントマン三浦康嗣(□□□)、幅広い活躍をみせるダンスパフォーマー白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)の3人が、ゼロからの共同作業により演劇・音楽・ダンスそれぞれの魅力を引き出し、音楽劇を創造した。三重の他に東京、高知、水戸で公演。東京以外の3都市で現地出演者のオーディションを兼ねたワークショップを実施し、各地で創作したシーン、各地で得た発想を作品に編みこむとともに、各都市で現地出演者を加えたオリジナルバージョンを上演した。野村さんは制作・ドラマトゥルクを担当。
音楽劇「ファンファーレ」
について

―まず「ファンファーレ」って、すごい4館じゃないですか。三重文10)三重県文化会館のこと。近年、幅広い公演活動とユニークな運営手法で注目を集めている。正式名称は公益財団法人三重県文化振興事業団。今回のインタビュー会場でもある。
三重県文化会館
と世田谷パブリックシアター11)1997年にオープンした東京都世田谷区の公共劇場。舞台作品創造に力を入れており、芸術監督や制作・学芸・技術分野の専門スタッフを配置している。
世田谷パブリックシアター
と高知県立美術館12)高知県高知市にある県立美術館。音響に定評のあるホールが併設されており、演劇やダンスの公演が行われている。
高知県立美術館
と水戸芸術館13)茨城県水戸市の複合文化施設。1990年の開館以来、音楽、演劇、美術の各分野で積極的に自主企画事業を展開している。
水戸芸術館
。10年ぐらい前だったらあり得ないような館同士が…。

野村:福岡も京阪神も名古屋も入ってない。地方にあって、積極的な館がそろってる。共通するのはやっぱり「わが星」14)劇作家・演出家の柴幸男さんが主宰する「ままごと」の作品。2010年第54回岸田國士戯曲賞を受賞した。野村さんは2009年の初演時よりドラマトゥルクとして参加。三重県文化会館では2011年5月に上演され話題を呼んだ。
わが星
ラブがあることで、それがすごく大きいですね。

―4館の担当者、皆さん見てたんですか。

野村:はい。三重は「わが星」から自然な流れだけど、高知と水戸は本当に担当制作者の情熱だから。そういう意味で柴君15)柴幸男さんのこと(上記参照)。1982年生まれ愛知県出身、ままごと主宰、青年団演出部所属。何気ない日常の機微を丁寧にすくいとる戯曲と、ループやサンプリングなど演劇外の発想を持ち込んだ演出が特徴。「ファンファーレ」で脚本・演出を担当した。、三浦さんっていうアーティストが館をつなげてる、ってことなんですけどね。今後、劇場助成の制度が進んで、公共ホールがお金持つようになった時に、公共ホールが全部自分たちでやれる気になって、アーティストを枠にはめるとつまらなくなっていっちゃう。アーティストやプロデューサーが人のつながりを持ってるってことを、相乗的に生かすのが1番いいと思います。それと今回の場合で言えば、僕らまだ30前後の人が中心で、自分が完成したと思ってないですから。今回の企画で、どれだけ結果を出して可能性を広げられるか、個々にトライしてると思うんです。その中で大きく2つ、この企画でトライしてることがあると思うんですけど。1つはさっきまでの話とつながるところで、「どうやって演劇なら演劇、音楽なら音楽、ダンスならダンスの固定客層の外側にアピールできるのか」。演劇と音楽とダンスが混じってて、そこに来ることによって演劇の人が「わー、音楽良かったね」、音楽の人が「ダンス良かったね」、ダンスの人が「演劇っていいね」というふうに、魅力を知る機会になるといいなって。それでハイコンテクストになりすぎると、演劇を見続けてる人しか分からないとか、音楽を知ってる人しか分からないってことになっちゃうんだけど、そうじゃない方法で魅力を伝えられる作品にしたいと。演劇や音楽やダンスに親しみがない一般の人にも見てもらえるものを発表したいと思ってるので、各地でそうなるといいなって。だから地方で普段から演劇を、しかもハイコンテクストなものを摂取する機会がない人たちに見せるっていうのは、東京でやるより楽しみですね。

―規模的にもああいう音楽劇って珍しいですよね。だいたい1000ぐらいの劇場でやっちゃうのがパターンだから。300席ぐらいの小劇場サイズでやるっていうのは、あまりないですよね。

野村:そうですね。それでもう1つのトライが、「三重、高知、水戸で現地キャストを入れる」っていう作り方。まずこの公演が決まった時に、本当は地方の3カ所で見せてから東京でやりたいと思ったんです。東京のコンテンツを鳴り物入りで地方に持ってくっていうやり方に、もう飽きたというか。のんびり創作して、あるいはじっくり地方のお客さんに見せて、その反響を受け取りながら作っていって、東京で見せるっていう。結局それはできませんでしたけど、その流れで今回は、普通は事前に広報とかちょっと技術を伝えるぐらいの感じでやるワークショップを、創作現場の一部にして、かつ参加者を出演させるっていうコンセプトを作ったんですよ。「先にワークショップをやって公演をやる」っていうやり方は、僕らはもう2011年の「わが星」ツアーでもやっていて、三浦さんが曲(□□□『いつかどこかで』)まで創っちゃって。だからその先に行きたいなと。もちろん地方でワークショップやるというのはいいことなんですが、それだけで地方で演劇やる人が増えるわけではないし、1回ワークショップやって渡せることはわずかです。それで、地域の人が創作の中に入ることで、たとえば「公演後もこういうことやりたい」って思えるような出会いがある作品にしたくて。

―なるほど。

野村:さらに、劇場は地域のものだと僕は思うので、地産地消じゃないけども「この地域があって、この劇場がある」っていう状態に近付いてほしい。地域の人が、自分たちで作品を作って地元の劇場でやって、それを外に持っていく。で帰って来て「こんな評価されましたよ」っていうやりとりが生まれる。野球やサッカーに例えるのがいと思いますけど、「アウェーの試合で評価されて、自分たちも自信を付ける」みたいな。地元の球団を応援してる人は、そのチームが外に行って勝つことで自信を得るわけです。「地域で劇場を核にして制作して、外で勝負する」っていう流れができるのがいいと思ってて。今回は公共ホールの共同制作なので、一般市民に広く開かれている中で地産地消的なニュアンスを作っていくとしたら、現在の状況ではこの形だろうと。この辺り、自分が公共ホールにいた時の経験が大きいと思います。地方の公共ホールにいると、「こうやったら面白いんじゃ」っていう発想はあるけど、一緒にやってくれる人もいなければ、お金もネタもない。だから本来プロデューサー的な位置を担ってもいるんだけど、自覚も持てないし試すこともできない。経験が積めない。今の僕みたいに、在野で生活もギリギリ(笑)のところで活動してる人にばかり経験がたまっていくっていう、不釣り合いなことが起きる。それを今回は、各地域の制作さんがただ東京のコンテンツを招聘するだけじゃなくて、現地キャストをオーガナイズして、その中で「自分がクリエーションしてる」っていう経験を得る。それが次に地域の人とクリエーションしなきゃいけない時に、役立つと思うんです。他の所から来たアーティストと現地の人をつなぐ経験ってなかなかできないし、今回はただの市民参加型じゃないので、参考になるんじゃないかと。そこのエクササイズに使ってもらえれば、っていう気持ちはありますね。劇場の中の人が創造的な活動に対して積極的じゃないと、劇場が創造的になることはないと思うから。本気で。マジで。そうなってもらわないと困るんです。

―三重は「トリプル3」の経験があるので、その辺はあまり苦労なくやれてますね。逆に、会館スタッフさんが慣れてて何でもやってしまうから、参加者の「自分たちで何とかする」っていう意識は他より低いかもしれない(笑)。

野村:各地の事情が違うんで、僕らは興味深いですけどね。主幹劇場でパッケージした作品を地方で受け入れるっていうんじゃなくて、ゼロから一緒に作るっていう前提で「あなたには何ができますか」っていう形で、クリエーションに加わってもらう。かつ市民演劇と違うのは、クオリティーも問われてるということ。クオリティーを保持することと、地元なりの作品を作ること、そのギリギリのバランスにトライしている企画だと思います。今は有力劇場が作品を作って、地域の人たちがそれを口に入れられてる状態なんで、三重文さんにはネクストスタンダードを作ってほしいですね。

―今、三重がいいのは、東京に一極集中してないこと。来てもらってる劇団が青森、茨城、京都、名古屋、大阪…と、東京を経由してないですからね。でも実際、制作系の人員がこれ以上三重で増えるかっていうと難しいですけど。

野村:ただ、面白いことやってたら、人は集まってくると思うんで。あとこれから必要なのはやっぱ「強いコンテンツ」じゃないですか、一発。全国的に、どの劇場・劇団が創った作品にも負けない質の高い作品。面白い作品。次なる5年10年で、それを生み出せば。

―悩みどころですね。「トリプル3」が終わって、今後も社会人対象の市民参画型を継続すべきなのか。実際あの参加者が演劇を続けるかっていうと、やっぱり難しいと思うんです。じゃあどうやって、地域で新しいクリエーターを作っていくかっていう。

野村:難しいところだとは思います。とりあえずは大都市から有力な人を呼んで滞在制作で創るしかないかもしれませんし、それでもいいと思います。ともかく環境の良さを作品に反映されること。そうすれば、たくさんの人が気づくと思うんです。創る場所は大都市じゃなくてもよいのだと。あと、地域にクリエーターを育てるということに関しては、僕はサッカーのクラブチームみたいなことを、劇場も模索した方がいいと思ってます。ジュニアからシニアに上がって、プロになるみたいな。演劇が地域になじんで広がっていくためには、若年層から関わりがあるようなグラデーションを、劇場でやる方がいいんだろうなぁって。

―大学の演劇専攻科の方が近道では。東海にまだないんですよ、表現系の。

野村:それもいいかもしれないですね。でも高校までも結構大事で。今は高校演劇っていう1つの業界があるけど、それに対して公共ホールで高校生が演劇をするっていう回路もほしい。軟式野球のチームって中学校の部活にあるじゃないですか。一方で地域に硬式野球のクラブチームがあって、そこから高校野球のスター選手になる人材が出る、ああいう感じで。現状、高校演劇って、それがプロの表現と同等っていう線が引かれてないんですよ。「何かちょっと格好悪いな」みたいな。そこを公共ホールが担っていくのは、いい道なんじゃないかと。

―でも三重の高校演劇は、劇的に変化してるんですよ。三重文さんで演劇見る機会が増えたことや、高校生向けの戯曲講座ができたことが影響してると思います。ただ、じゃあ彼らが母体となって三重で演劇をやるかっていうと、劇団はねたまご。16)三重県北勢地区を中心に活動する「劇団はねたまご。」のこと。三重県立いなべ総合学園演劇部の卒業生を中心に、2008年設立。
劇団はねたまご。
ぐらいですけどね、今のところ。

野村:アウェーで勝てるっていう自信を、どこまで持てるかじゃないですか。それがたぶん強いコンテンツってことで。要するに、この劇場で作って繰り返し上演されるような、強い作品や人気の作品があって、そこに地元の人が参加してる。さらに外でも評価されてるっていう状況ができれば、「私もあそこ目指してやってみようかな」って。演劇やりたい、プロになりたいから東京に行く、じゃなくて、ここからそのまま外に行くっていうパスが作れれば、盛り上がっていくと思います。

なぜ演劇をやっているのか

―野村さんは、高校時代は?

野村:僕、高校までは将棋に狂ってました。一応3年生の時に、団体戦で全国大会準決勝まで行ったんです。まぁでもプロになるほど強くなくて。あとは文化祭が好きで、文化祭を守るために生徒会長やっちゃったりして。そういう感じだった、すごい優等生で。

―へぇ〜。

野村:何で演劇を始めたかっていうと、大学入る前に2年浪人したんですけど、2年目に「あー、自分ちょっと表現やらないとダメだ」とひらめいて。浪人時代に、いろいろな社会運動やってる人に出会って、「未来は自分で切り開くものなんだ」とか「今の世の中、いろんな問題が眠ってるんだ」とか知って。考えていくと、どうも表現をやらなきゃなと。僕らの年代的な問題もあると思うんですけど。社会が決まっちゃってて「こういう人が集まったら、こう振る舞った方がいい」っていうロールプレイングが飽和している感があって。自分が優等生だったのは、その振る舞いをうまくなぞれて、何か頼まれたらちゃんと引き受けるからだったと思うんです。で「このまま自分、こんな空っぽに生きていっていいんだろうか」って、浪人中で何もないがゆえに考えたんですね。大学入って演劇やってみて思ったのは、そういう社会のロールプレイングを一時停止して、何か別のことができたり、自分の新しい側面を知ることができたり。その結果、世の中の見え方が変わるっていう余地が、劇場や稽古場って場所にはあるなぁと。そのロールプレイングで鬱に入る人は結構多くて、知らず知らずのうちに演じさせられてる。それを知った上で、逆にポジティブに捉えるために演劇をやるっていう。

―何かの作品や演劇という表現にひかれたというよりは、制作の過程に興味を持ったという。

野村:だから僕は、コンテンツとして演劇作品の面白いやつっていうのが、あんまり分からないと思うときがあります。これはココが面白い、これはこういう部分がイイとか、いろんな面白さが世の中にあるから、それぞれに面白いってことは分かるんだけど、「なぜ絶対的にこれなのか」みたいなことは分からない。優劣付ける観点も、この物差し当てればこれの方がいいな、ってのはあるけど、その物差し自体がどうなんだみたいな。それよりできるだけ広く、演劇っていう世の中とは違う場所をみんなが利用できて、そこで「生きていく」ってことを自分でつかめたらいいなぁって。僕が付き合ってる人はアーティスティックな人が多いですけど、僕自身はそこに対して引いてみてるっていうか、流行と同じだなと思ってて。それより多種多様な人と出会うことや、いろんな人が演劇の場に入ってきて、その人なりの何かを見せてくれることの方が大事ですね。今回「ファンファーレ」で、本番初日に4地域集合して「うたえば」17)三浦康嗣さんが「ファンファーレ」のために書き下ろしたテーマ曲。東京公演初日終演後、三重、高知、水戸に出演する現地キャストが集結し、ミニライブで合唱した。の合唱をやったんですけど、すごい興味深かったです。初めて会った人たちが、自己紹介で自分の役名と何でそうなったかっていう話をして、1周したらみんなで一緒に、それぞれ練習してきた「うたえば」を歌う。出会ったばっかりなのに、各地のワークショップで同じようなことを経験してるから、妙に打ち解けて。たった1時間ぐらいなんだけど仲良くなれちゃうっていうか、普通にコミュニケーションとれる関係になった。で、そんなに大したリハーサルもないけど、200人のお客さんを前に歌うことができたっていうのは、結構面白いなって。

―ある共通体験をして共通の目的があると、警戒心なく交流できるんですね。

野村:この先には絶対会わないような人たちだから、言ってしまえば関係を築く必要もないのに、そこに一緒にいることが楽しめてる。演劇のいいところだし、音楽のいいところでもあると思うんです。

ドラマトゥルクとは

―野村さんは「ドラマトゥルク」の第一人者ですが、それは何ぞやという話を。

野村:うーん、第一人者ではないかな(笑)。まずもともと自分はドラマトゥルクって名乗ってなくて、名付けられたんですね。サンプルの「家族の肖像」18)「サンプル」は、青年団若手自主企画公演を経て2007年に旗揚げされた劇団。「家族の肖像」は2008年に上演された。
サンプル
って作品からですね。その前の公演で音響やってたんですけど、どうもしっくりこなくて。自分的にはそれが作品全体と直結してたので、作品の話を松井さん19)「サンプル」主宰者で劇作家・演出家・俳優の松井周さん。にしたんです。松井さんはそれが面白かったらしくて、次からそれだけの係として「演出助手・ドラマターグ」とクレジットされたのが発端です。ただ僕はそういうことを初めてやったわけじゃなくて。公共ホールに勤める前の演劇活動では、先輩の下で音響やったり宣伝美術やったり、ちょい役で出たりしてたんですよ。それと並行して自分で作・演出もやってて、その前に役者もやってた。今、それを総合して、制作者と名乗ってやってるところもあるし、別の切り口で見たらドラマトゥルクってことになる。各局面で作品全体のことについて考えることをやってたので、それをアップデートした形です。作品の中身だけじゃなくて、その作品がどう観客に受け止られるかとか、社会的にどう位置づけるのかとかを考える。あるいはアーティストにとってその作品を、キャリアの中でどう位置づけるかとか。

―1つの役割に特化しちゃうと見えない部分を。

野村:はい。あとここ5年ぐらい、トレンドとして“ドラマっぽい演劇じゃない演劇”が僕らの周りでやられてて。ドラマっぽい演劇だったら戯曲の物語をどう表現するかで成立するけど、物語性が薄い時はそれが「どう見えるか」が肝。その時演出家が「こうしたい」って思っちゃうと客観的に見るのが難しいと思うんです。その部分を担う。僕は大学生時代から、あんまり物語には執着がなかったんですね…何て言うのかな、周りの演劇関係の人は、文学系とか映画とかの嗜好の人が多かったんですけど、僕にとっては、演劇を見たりやったりする中で、そこじゃない引き金でいっぱい感動できるし、それが演じるときのハードルになるな、って思ったんです。それで科学的にはどうなってるんだろうと思って、知覚の研究分野に行って。僕、文学部心理学専修なんだけど、卒論は科学の論文。そこで吸収したものの見方が、役に立ってると思います。舞台上でこっちよりこっちの方が目立っちゃうとか、その理由を探して「ここで見せたい意味がこういうことだとした時に、今表現されてるのはこうで、じゃあココとココのバランスはこうした方がいいんじゃないか」とか。「これをやりたい」って手を下してる立場じゃないところで、ご意見番的にコミュニケーションする。

―制作さんに聞きにいけば分かることってありますね。実際今回の芝居はどうなのかとか。

野村:そう。だから僕は「いいお客さん」だし、「演出的観点を持った制作」なんだと思いますよ。でも僕が演劇を始めたのは1999年か2000年ですけど、それぐらいの時にいた上の人たちって、演出家に従うっていう暗黙のルールがあって、それ以外の人は口出ししちゃいけないし、いくら王様が裸でも言わないっていう状態だった。どーんと小屋入って、2日仕込みとかで、あぁこんなセットだった、こんな音だった、こんな照明だった、ってやるんですけど、どう考えてもそれによって作品が良くなる感じがしなかったんですよ。すごく博打になっちゃってる。「こういうイメージで」とかさんざん打ち合わせしたのに、入ってみると全然違ったり。自分が演出してた時、「こんなセットになるはずだったっけ!?」ってことがあって、僕フリーズしちゃって、サークルの同期のヤツに助けられて何とか幕開けたんですけど。そういうのが疑問だった。だから座組のメンバーが、それぞれ自分の得手とか個性とかその人しか持ってないものを、どう生かせばいい作品になるかってことを考えたんです。集団内で誰かが威張って誰かが黙るみたいなことにならないように、均衡状態をうまく作るというか、みんなに口を開かせるみたいな役目をやったんですね。ただ最近は、みんなそうできるようになって現場が民主化してるので、僕がやらなくてもうまく回ります。「わが星」初演の時、ドラマトゥルクで参加することになって最初に宮永君20)「ままごと」の制作担当者、宮永琢生さん。「ファンファーレ」でも制作を務めた。に言ったのは、稽古とは別にスタッフが全員いる状態でミーティングして、作品全体のアイデア出すところから共有した方がいいって。スタッフはスタッフで、自分たちが何をやりたいかそれぞれが知った状態でスタートさせないと、小屋入りして「はい、こんなん出ましたー」ってなっちゃうからって言ったんです。「ファンファーレ」も同じようにやりましたね。

―コンサルタントとも違いますよね。

野村:そうですね。僕がその現場に対して愛を持って、「何が起きても自分はやるよ」って振る舞えるチームでだけ、できる。僕のやってることは「たまたまこういうメンバーの時にこういう不足があって、そこを埋めてた」ってことだと認識してます。なので最近は「そろそろドラマトゥルクってやつを辞めてもいいんじゃないか」って思ってますけどね。プロデューサーとしてやった方が、直接的だし分かりやすいし。

―プロデューサー、やってほしいです。では、今後のご予定は?

野村:サンプル+青年団の「地下室」21)2013年1月24日(木)~2月3日(日)、こまばアゴラ劇場で公演予定。2006年に「サンプル」旗揚げ直前の松井周さんが手掛けた「物語」演劇を、「サンプル」と「青年団」の精鋭で再演する。
サンプル+青年団「地下室」
に、制作協力として参加します。あと助成金関係の調査活動に携わります。特定のアーティストをマネジメントしてるわけではない僕のような人がやるべきことだと思うから。それが次の仕事ですね。ほんとは具体的に劇場を活かす活動がしたいと思っていて、そろそろ根なし草で活動することに限界を感じてるので、それから後は…どうするか、このまま演劇を続けられるかどうかすら分かんないです。

 

写真撮影・構成:脇ふみ子
インタビュアー:油田晃(特定非営利活動法人パフォーミングアーツネットワークみえ)、松浦茂之(三重県文化会館)
収録:2012年10月14日・三重県文化会館